我是猫(日汉对照·有声撷英版)(txt+pdf+epub+mobi电子书下载)


发布时间:2020-07-16 08:00:45

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作者:夏目漱石

出版社:华东理工大学出版社

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我是猫(日汉对照·有声撷英版)

我是猫(日汉对照·有声撷英版)试读:

わがはいねこなまえ吾輩は猫である。名前はまなだ無い。うまけんとうどこで生れたかとんと見当なんうすぐらがつかぬ。何でも薄暗いじめじところなめした所でニャーニャー泣いてこときおくわがいた事だけは記憶している。吾はいはじにんげんみき輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとしょせいにんげんじゅういちばんどうあくしゅぞくそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうしょせいときどきわれわれつかまにくだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うというはなしとうじなんかんがえべつ話である。しかしその当時は何という考もなかったから別だんおそろおもかれてのひらの段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーもあときなんかんと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりであ

てのひらうえすこおしょせいかおみる。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆるにんげんみはじめときみょうおも人間というものの見始であろう。この時妙なものだと思っかんいまのこだいいちけそうしょくた感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきかおやかんごねこはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶあかたわいちどでくこと逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。のみならかおまんなかとっきあななかず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中からときどきけむりふむじつよわ時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽せぽくて実に弱った。こ

にんげんのたばこことごろしれが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。しょせいてのひらうちこころもちすわ

この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐ってひじょうそくりょくうんてんはじしょおったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書せいうごじぶんうごわかむやみめまわ生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻

むねわるとうていたすおもる。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりとおとめひできおくなん音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何のことかんがだわか事やらいくら考え出そうとしても分らない。きつみしょせいきょう

ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄だいいっぴきみかんじんははおやすがたかく弟が一匹も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。

うえいまところちがむやみあかめあその上今までの所とは違って無暗に明るい。眼を明いていらなんようすはだれぬくらいだ。はてな何でも容子がおかしいと、のそのそ這い出みひじょういたわがはいわらうえきゅうささはらなかして見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中すへ棄てられたのである。おもささはらはだむこおおいけ

ようやくの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池があ

わがはいいけまえすわかんがみる。吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見

べつふんべつでなしょせいた。別にこれという分別も出ない。しばらくして泣いたら書生むかいきかんがつこころがまた迎に来てくれるかと考え付いた。ニャー、ニャーと試みだれこいけうえかぜみにやって見たが誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風わたひくはらひじょうへきなが渡って日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。泣きたくてこえでしかたなんくいものところも声が出ない。仕方がない、何でもよいから食物のある所まけっしんいけひだまわはじであるこうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めひじょうくるがまんむりはた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這っていことなんにんげんくさところでは行くとようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。ここへ這いおもたけがきくずあな入ったら、どうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とあるていないこえんふしぎたけがき邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣がやぶわがはいろぼうがしし破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかも知れいちじゅかげいかきねあなんのである。一樹の蔭とはよく云ったものだ。この垣根の穴はこんにちいたわがはいとなりみけほうもんときつうろ今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路にやしきしのこさきなっている。さて邸へは忍び込んだもののこれから先どうしていわかくらはらへさむさむ善いか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒

あめふくしまついっこくゆうよできし、雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予が出来なくしかたあかあたたほうほうなった。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方いいまかんがときいえうちはへとあるいて行く。今から考えるとその時はすでに家の内に這いわがはいかしょせいいがいにんげんふたた入っておったのだ。ここで吾輩は彼の書生以外の人間を再みきかいそうぐうだいいちあび見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのがおさんまえしょせいいっそうらんぼうほうわがはいみである。これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るやいなくびすじおもてほうだ否やいきなり首筋をつかんで表へ抛り出した。いやこれはだめおもめうんてんまか駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしさむがまんできわがはいふたたひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再すきみだいどころはあがまなびおさんの隙を見て台所へ這い上った。すると間もなくまた投だわがはいなだはあがはあがなげ出された。吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投だなんおなことしごへんくかえきおくげ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶していときいものあいだる。その時におさんと云う者はつくづくいやになった。この間さんまぬすへんぽうむねおさんの三馬を偸んでこの返報をしてやってから、やっと胸のつかえおわがはいさいごだ痞が下りた。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、

うちしゅじんそうぞうなんできげじょこの家の主人が騒々しい何だといいながら出て来た。下女はわがはいさしゅじんほうむやどこねこ吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくだだおだいどころあがきこましゅら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという。主じんはなしたくろけひねわがはいかおなが人は鼻の下の黒い毛を捻りながら吾輩の顔をしばらく眺めてうちおおくはおったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這いしゅじんくちきひとみげじょ入ってしまった。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女はくやわがはいだいどころほうだわがはい口惜しそうに吾輩を台所へ抛り出した。かくして吾輩はつうちじぶんすみかきこといにこの家を自分の住家と極める事にしたのである。

わがはいしゅじんめったわがはいかおあわことしょく吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職ぎょうきょうしがっこうかえしゅうじつしょさいはい業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入っでくことうちたいへんべんきょうかたぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家

おもとうにんべんきょうかみだと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。じっさいきんべんかわがはいしかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩ときどきしのあしかれしょさいのぞみかれひるねは時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をことときどきよほんうえよだれしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしかれいじゃくひふいろたんこうしょくおだんりょくている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のなふかっぱつちょうこうくせおおめしくい不活溌な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。おおめしくあとののあとしょもつ大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をにさんよねむよだれほんうえたひろげる。

三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らかれまいよくかえにっかわがはいねこときす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時どきかんがこときょうしじつらくにん々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人げんうまきょうしかぎねつと間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるもねこできことしゅじんいのなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせるときょうしかれともだちくたびなん教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかふへいなかんとか不平を鳴らしている。

わがはいうちすことうじしゅじんいがい吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外のものにはふじんぼういはつあいてはなはだ不人望であった。どこへ行っても跳ね付けられて相手てちんちょうこんにしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今にちいたなまえわかわがはいし日に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。吾輩は仕かたできうかぎわがはいいしゅじんそば方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍に

ことあさしゅじんしんぶんよかならかれひざいる事をつとめた。朝主人が新聞を読むときは必ず彼の膝うえのかれひるねかならせなかのの上に乗る。彼が昼寝をするときは必ずその背中に乗る。こしゅじんすわけべつかまてれはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなえごけいけんうえあさかったからやむを得んのである。その後いろいろ経験の上、朝めしびつうえよるこたつうえてんきひるえんがわねことは飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は椽側へ寝る事いちばんこころもちいよるはいとした。しかし

番心持の好いのは夜に入ってここのうちのこどもねどここことこども子供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。この子供いつみっよるふたりとこはいひとというのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一まねわがはいかれらちゅうかんおのいよ間へ寝る。吾輩はいつでも彼等の中間に己れを容るべき余ちみいだわこうんわる地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪くこどもひとりめささいごたいへんことこども子供の一人が眼を醒ますが最後大変な事になる。子供は――こ

ちいほうたちねこきねこきよなかとに小さい方が質がわるい――猫が来た猫が来たといって夜中でなんおおこえなだれいしんけいいも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃じゃくせいしゅじんかならめつぎへやとだ弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してく

げんものさししりたたる。現にせんだってなどは物指で尻ぺたをひどく叩かれた。

わがはいにんげんどうきょかれらかんさつかれ吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼らわがままだんげんえ等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。ことにわがはいときどきどうきんこどもいたごんごどうだん吾輩が時々同衾する子供のごときに至っては言語同断でじぶんかってときひとさかあたまふくろある。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶほうだなかおこせたり、抛り出したり、へっついの中へ押し込んだりする。しかわがはいほうすこてだかないそうも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内総がかりおまわはくがいくわあいだたたみつめとで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を磨さいくんひじょうおこよういざしきいいだら細君が非常に怒ってそれから容易に座敷へ入れな

だいどころいたまひとふるいっこうへいきい。台所の板の間で人が顫えていても一向平気なものであ

わがはいそんけいすじむこうしろくんあたびごとにんげんる。吾輩の尊敬する筋向の白君などは逢う度毎に人間ほふにんじょういしろくんせんじつたまど不人情なものはないと言っておらるる。白君は先日玉のこねこよんひきううちしょような子猫を四匹産まれたのである。ところがそこの家の書せいみっかめうらいけもいよんひきす生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四匹ながら棄てきしろくんなみだながいちぶしじゅうはなて来たそうだ。白君は涙を流してその一部始終を話したうえわれらねこぞくおやこあいまったうつくか上、どうしても我等猫族が親子の愛を完くして美しい家ぞくてきせいかつにんげんたたかそうめつ族的生活をするには人間と戦ってこれを掃滅せねばならぬいちいちぎろんおもとなみけくんといわれた。一々もっともの議論と思う。また隣りの三毛君にんげんしょゆうけんことかいおおいなどは人間が所有権という事を解していないといって大にふんがいがんらいわれわれどうぞくかんめざしあたまぼら憤慨している。元来我々同族間では目刺の頭でも鰡のへそいちばんさきみつくけんり臍でも一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとあいてきやくまもわんりょくうったなっている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴よかれらにんげんごうかんねんえて善いくらいのものだ。しかるに彼等人間は毫もこの観念みわれらみつごちそうかならかれらがないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のためにりゃくだつかれらごうりきたのせいとうご掠奪せらるるのである。彼等はその強力を頼んで正当に吾じんくううばしろくんぐんじんいえ人が食い得べきものを奪ってすましている。白君は軍人の家みけくんだいげんしゅじんもわがはいきょうしにおり三毛君は代言の主人を持っている。吾輩は教師のうちすことかんりょうくん家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりもむしろらくてんひひおく楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよにんげんさかことい。いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。きながねこじせつままあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。

わがままおもだわがはいうちしゅじんわが我儘で思い出したからちょっと吾輩の家の主人がこの我まましっぱいはなしがんらいしゅじんなんひと儘で失敗した話をしよう。元来この主人は何といって人にすぐできことなんてだはいく勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句とうしょしんたいしみょうじょうだをやってほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出しまちがえいぶんときゆみこたり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝った

うたいならり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーなきどくことものブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっくせだいじゃくくせねっしんこうかておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ。後架なかうたいきんじょこうかせんせいあだなの中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられてかんいっこうへいきたいらむねもりいるにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛

そうろうくりかえむねもりふだにて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらしゅじんかんがえわがはいすいである。この主人がどういう考になったものか吾輩の住みこひとつきのちつきげっきゅうびおおつつ込んでから一月ばかり後のある月の月給日に、大きな包みさかえきなにかきおもを提げてあわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うとすいさいえのぐもうひつかみきょううたいはいく水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句えけっしんみはたよくじつとうぶんあいだをやめて絵をかく決心と見えた。果して翌日から当分の間まいにちまいにちしょさいひるねえというものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいあみなにている。しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやらだれかんていとうにんうまおも誰にも鑑定がつかない。当人もあまり甘くないと思ったものひゆうじんびがくひときときしもか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下のはなしきような話をしているのを聞いた。うまひとみなん

「どうも甘くかけないものだね。人のを見ると何でもないよみずかふでみいまさらかんうだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずしゅじんじゅっかいいつわところる」これは主人の述懐である。なるほど詐りのない処だ。かれともきんぶちめがねごししゅじんかおみはじ彼の友は金縁の眼鏡越に主人の顔を見ながら、「そう初めかじょうずだいいちしつないそうぞうえら上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかけわけむかイタリーたいかる訳のものではない。昔し以太利の大家アンドレア·デル·サルいことえなんしぜんものうつトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。てんせいしんちろかととりはしけもの天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。いけきんぎょこぼくかんあしぜんいっぷくだいかつ池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活がきみええおもしゃせい画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」ことこと

「へえアンドレア·デル·サルトがそんな事をいった事があるしじつかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実に

とおしゅじんむやみかんしんきんぶちうらその通りだ」と主人は無暗に感心している。金縁の裏にはあざわらいみ嘲けるような笑が見えた。よくじつわがはいれいえんがわでこころもちよひるね

その翌日吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝しゅじんれいしょさいできわがはいうしをしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろなにめさなにいちで何かしきりにやっている。ふと眼が覚めて何をしているかと一ぶほそめめみかれよねん分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア·きこわがはいありさまみおぼデル·サルトを極め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えずしっしょうきんえかれかれともやゆ失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄せられたるけっかてはじわがはいしゃせいわが結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾はいじゅうぶんねあくび輩はすでに十分寝た。欠伸がしたくてたまらない。しかしせっ

しゅじんねっしんふでとうごきどくかく主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だとおもしんぼうかれいまわがはいりんかく思って、じっと辛抱しておった。彼は今吾輩の輪廓をかきあかおいろどわがはいじはくわがはい上げて顔のあたりを色彩っている。吾輩は自白する。吾輩はねこけっじょうじょうできせけなみ猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といいかおぞうさくほかねこまさけっおも顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらぶきりょうわがはいいまわがはいしゅじんえがん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描だみょうすがたおもき出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われな

だいいちいろちがわがはいペルシャさんねこきふくい。第一色が違う。吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含めるたんはいしょくうるしふいひふゆう淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。これだけだれみうたがじじつおもいましゅじんは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人のさいしきみきくろはいいろ彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければとびいろまいろいっ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一しゅいろひょうかたいろ種の色であるというよりほかに評し方のない色である。そのうえふしぎことめね上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところをしゃせいむりめところみ写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないからめくらねねこはんぜんわがはいしんちゅう盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア·デル·サルトでもこれではしようがないおもねっしんかんぷくえと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべく

うごおもしょうべんなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便がもよみうちきんにくもはやいっぷんゆう催うしている。身内の筋肉はむずむずする。最早一分も猶よできしぎしっけいりょうあしまえ予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前ぞんぶんくびひくおだだいあくびへ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる欠伸をした。みしかたさてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。しゅじんよていぶこうらいどうせ主人の予定は打ち壊わしたのだから、ついでに裏へ行っようたおもはだしゅじんしつぼうて用を足そうと思ってのそのそ這い出した。すると主人は失望いかかまこえざしきなかばかと怒りを掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿やろうどなしゅじんひとののしかならばかや野郎」と怒鳴った。この主人は人を罵るときは必ず馬鹿野ろうくせわるくちいし郎というのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだしかたいましんぼうひときしむから仕方がないが、今まで辛抱した人の気も知らないで、無やみばかやろうよばしっけいおもへいぜいわがはい暗に馬鹿野郎呼わりは失敬だと思う。それも平生吾輩がかれせなかのときすこいかおまんばあま彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの漫罵も甘うべんりことなにひとこころよんじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてく

ことしょうべんたばかやろうひどれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは酷い。がんらいにんげんじこりきりょうまんぞうちょう元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長しすこにんげんつよできいじている。少し人間より強いものが出て来て虐めてやらなくては

さきぞうちょうわかこの先どこまで増長するか分らない。

わがままがまんわがはいにんげんふとく我儘もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳にすうばいかなほうどうみみことついてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。

わがはいうちうらとつぼちゃえんひろ吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園がある。広くはないがこころもよひあたところこどもさっぱりとした心持ち好く日の当る所だ。うちの子供があまさわらくらくひるねできときたいくつはらかげんり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のおりわがはいでこうぜんきやしなよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然の気を養れいこはるおだやひにじごろうのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、わがはいひるめしごこころいっすいのちうんどうちゃ吾輩は昼飯後快よく一睡した後、運動かたがたこの茶えんほはこちゃきねいっぽんいっぽんかにし園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西がわすぎかきかれぎくおたおうえおお側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きねこぜんごふかくねかれわがはいちかいっこうな猫が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向こころづこころづむとんちゃくおお心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大

いびきながながからだよこたねむひとていないきな鼾をして長々と体を横えて眠っている。人の庭内にしのいへいきねむわがはい忍び入りたるものがかくまで平気に睡られるものかと、吾輩はひそだいたんどきょうおどろえかれ窃かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼はじゅんすいくろねこごすたいようとうめい純粋の黒猫である。わずかに午を過ぎたる太陽は、透明なこうせんかれひふうえなにこげあいだる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、きらきらする柔毛の間めみほのおもいおもかれねこじゅうより眼に見えぬ炎でも燃え出ずるように思われた。彼は猫中だいおういいだいたいかくゆうわがはいの大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩ばいわがはいたんしょうねんこうきこころぜんの倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前ごわすかれまえちょりつよねんながしず後を忘れて彼の前に佇立して余念もなく眺めていると、静かこはるかぜすぎかきうえでごとうえだかるさそなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐の枝を軽く誘ってにさんまいはかれぎくしげおだいおうばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はかっと

まんまるめひらいまきおくめにんげんその真丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間ちんちょうこはくはるうつくかがやの珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いてい

かれみうごそうぼうおくいひかりわがた。彼は身動きもしない。双眸の奥から射るごとき光を吾はいわいしょうひたいおいったいなんい輩の矮小なる額の上にあつめて、御めえは一体何だと云っ

だいおうしょうしょうことばいやおもなにた。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが何しろそこえそこいぬひちからこもわがはいすくの声の底に犬をも拉しぐべき力が籠っているので吾輩は少なおそいだあいさつけんのんおもからず恐れを抱いた。しかし挨拶をしないと険呑だと思ったわがはいねこなまえへいきから「吾輩は猫である。名前はまだない」やとなるべく平気をよそおれいぜんこたときわがはいしんぞう装って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたしかにへいじはげこどうかれおおいけいべつちょう平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大に軽蔑せる調しなにねこねこきぜんす子で「何、猫だ?猫が聞いてあきれらあ。全てえどこに住んでずいぶんぼうじゃくぶじんわがはいきょうしうちるんだ」随分傍若無人である。「吾輩はここの教師の家ことおもやにいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠せてるだいおうきえんふことばづけさっじゃねえか」と大王だけに気焔を吹きかける。言葉付から察りょうけねこおもあぶらぎするとどうも良家の猫とも思われない。しかしその膏切ってひまんみごちそうくゆた肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かにくらわがはいいきみいったいだれき暮しているらしい。吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞えおのくるまやくろこうぜんかざるを得なかった。「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。くるまやくろきんぺんしものらんぼうねこ車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかしくるまやつよきょういくだれ車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰もこうさいどうめいけいえんしゅぎまとやつわがはい交際しない。同盟敬遠主義の的になっている奴だ。吾輩かれなきしょうしょうしりかんおこどうじは彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、いっぽうしょうしょうけいぶねんしょうわがはい一方では少々軽侮の念も生じたのである。吾輩はまずかれむがくためおもさもんどう彼がどのくらい無学であるかを試してみようと思って左の問答みをして見た。いったいくるまやきょうし

「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」くるまやほうつよきまおしゅ

「車屋の方が強いに極っていらあな。御めえのうちの主じんみほねかわ人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」きみくるまやねこだいぶつよくるまやご

「君も車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御ちそうくみ馳走が食えると見えるね」なあくにいくものふじゆう

「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由おちゃばたけまわはしねえつもりだ。御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っておれあとつきみひつきいねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたみちがふとねえうちに見違えるように太れるぜ」おねがことうちきょうしほう

「追ってそう願う事にしよう。しかし家は教師の方がくるまやおおすおも車屋より大きいのに住んでいるように思われる」べらぼうおおはらた

「箆棒め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」

かれおおいかんしゃくさわようすかんちく彼は大に肝癪に障った様子で、寒竹をそいだようなみみつたさわがはいくるま耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車やくろちき屋の黒と知己になったのはこれからである。ごわがはいたびたびくろかいこうかいこうごとかれ

その後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼はくるまやそうとうきえんはせんわがはいみみふとく車屋相当の気焔を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳じけんじつくろき事件も実は黒から聞いたのである。あひれいわがはいくろあたたちゃばたけなかねころ

或る日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畠の中で寝転ざつだんかれじまんばなびながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話しを

あたらくかえわがはいむかしもさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下のごとくしつもんおいまねずみなんびきことち質問した。「御めえは今までに鼠を何匹とった事がある」智しきくろよほどはったつわんりょくゆうき識は黒よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とにいたとうていくろひかくかくご至っては到底黒の比較にはならないと覚悟はしていたものといせっとききまよの、この問に接したる時は、さすがに極りが善くはなかった。じじつじじついつわわけいわがはいけれども事実は事実で詐る訳には行かないから、吾輩は「じつおもとこたくろかれ実はとろうとろうと思ってまだ捕らない」と答えた。黒は彼のはなさきつっぱながひげふるひ鼻の先からぴんと突張っている長い髭をびりびりと震わせて非じょうわらがんらいくろじまんだけた常に笑った。元来黒は自慢をする丈にどこか足りないとこかれきえんかんしんのどなろがあって、彼の気焔を感心したように咽喉をころころ鳴らしきんちょうぎょねこわがはいかれて謹聴していればはなはだ御しやすい猫である。吾輩は彼とちかづきすぐこきゅうのこばあい近付になってから直にこの呼吸を飲み込んだからこの場合におのべんごけいせいぐもなまじい己れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚でことかれじぶんてがらばなしおちゃある、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶をにごししあんさだきみ濁すに若くはないと思案を定めた。そこでおとなしく「君などとしとしだいぶみかは年が年であるから大分とったろう」とそそのかして見た。果ぜんかれしょうへきけっしょとっかんきさん然彼は墻壁の欠所に吶喊して来た。「たんとでもねえが三しじゅうとくいげかれこたえかれ四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。彼は

はなしねずみひゃくにひゃくひとりひうなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受やつてあいちどむかひどけるがいたちってえ奴は手に合わねえ。一度いたちに向って酷めああいづちうくろおおめい目に逢った」「へえなるほど」と相槌を打つ。黒は大きな眼をいきょねんおおそうじときていしゅいしぱちつかせて云う。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石ばいふくろもえんしたはこおおおや灰の袋を持って椽の下へ這い込んだら御めえ大きないたちの野ろうめんくらとだおもかんしんみ郎が面喰って飛び出したと思いねえ」「ふん」と感心して見せなにねずみすこおおる。「いたちってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。こちきしょうきおどなかおこおもん畜生って気で追っかけてとうとう溝の中へ追い込んだと思いかっさいおねえ」「うまくやったね」と喝采してやる。「ところが御めえいだんやつさいごぺくせくさざってえ段になると奴め最後っ屁をこきゃがった。臭えの臭くみむねわるねえのってそれからってえものはいたちを見ると胸が悪くなら

かれいたきょねんしゅうきいまかんあ」彼はここに至ってあたかも去年の臭気を今なお感ずるご

まえあしあはなあたまにさんべんまわがはいとく前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。吾輩もしょうしょうきどくかんけいきつ少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうとおもねずみきみにらひゃくねんめきみ思って「しかし鼠なら君に睨まれては百年目だろう。君はねずみとめいじんねずみくあまり鼠を捕るのが名人で鼠ばかり食うものだからそんなにふといろよくろごきげんしつ肥って色つやが善いのだろう」黒の御機嫌をとるためのこの質もんふしぎはんたいけっかていしゅつかれきぜん問は不思議にも反対の結果を呈出した。彼は喟然としてたいそくかんかせねずみ大息していう。「考げえるとつまらねえ。いくら稼いで鼠をいっにんげんやつよなかひととったって――一てえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。人ねずみとあこうばんもゆのとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあが

こうばんだれとわかごせんる。交番じゃ誰が捕ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつていしゅおれおかげいちえんごくれるじゃねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壱円五じゅせんもうくせろくくこと十銭くらい儲けていやがる癖に、碌なものを食わせた事もあにんげんていいどろぼうむりゃしねえ。おい人間てものあ体の善い泥棒だぜ」さすが無がくくろりくつみおこよう学の黒もこのくらいの理窟はわかると見えてすこぶる怒った容すせなかけさかだわがはいしょうしょうきみわる子で背中の毛を逆立てている。吾輩は少々気味が悪くいかげんばごまかうちかえときなったから善い加減にその場を胡魔化して家へ帰った。この時

わがはいけっねずみけっしんくろこから吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。しかし黒の子ぶんねずみいがいごちそうあさこと分になって鼠以外の御馳走を漁ってあるく事もしなかっごちそうくねほうきらくきょうしうちた。御馳走を食うよりも寝ていた方が気楽でいい。教師の家ねこきょうしせいしつみようじんにいると猫も教師のような性質になると見える。要心しないいまいじゃくしと今に胃弱になるかも知れない。

きょうしわがはいしゅじんちかごろいたとうていすい教師といえば吾輩の主人も近頃に至っては到底水さいがのぞみことさとみじゅうにがつ彩画において望のない事を悟ったものと見えて十二月ついたちにっきこと一日の日記にこんな事をかきつけた。

まるまるいひときょうかいはじであひとだい○○と云う人に今日の会で始めて出逢った。あの人は大ぶほうとうひといつうじんふうさい分放蕩をした人だと云うがなるほど通人らしい風采をしていいたちひとおんなすまるまるほうとうる。こう云う質の人は女に好かれるものだから○○が放蕩をいほうとうよぎいしたと云うよりも放蕩をするべく余儀なくせられたと云うのがてきとうひとさいくんげいしゃうらやこと適当であろう。あの人の妻君は芸者だそうだ、羨ましい事がんらいほうとうかわるひとだいぶぶんほうとうである。元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をするしかくおおほうとうかじにんれんちゅう資格のないものが多い。また放蕩家をもって自任する連中ほうとうしかくおおよぎのうちにも、放蕩する資格のないものが多い。これらは余儀なむりすすわがはいすいくされないのに無理に進んでやるのである。あたかも吾輩の水さいがおとうていそつぎょうき彩画に於けるがごときもので到底卒業する気づかいはない。かんじぶんつうじんおもすましかるにも関せず、自分だけは通人だと思って済している。りょうりやさけのまちあいはいつうじんう料理屋の酒を飲んだり待合へ這入るから通人となり得ると

ろんたわがはいひとかどすいさいがかうりくついう論が立つなら、吾輩も一廉の水彩画家になり得る理窟

わがはいすいさいがほうおなだ。吾輩の水彩画のごときはかかない方がましであると同じぐまいつうじんやまだおおやぼほうはるように、愚昧なる通人よりも山出しの大野暮の方が遥かにじょうとう上等だ。

つうじんろんしゅこうげいしゃさいくん通人論はちょっと首肯しかねる。また芸者の妻君をうらやきょうしくちぐ羨しいなどというところは教師としては口にすべからざる愚れつかんがえじこすいさいがひひょうがん劣の考であるが、自己の水彩画における批評眼だけはたしゅじんじちめいかんしかなものだ。主人はかくのごとく自知の明あるにも関せずそうぬぼれしんぬなかふつかおじゅうにがつよっかの自惚心はなかなか抜けない。中二日置いて十二月四日にっきことかの日記にこんな事を書いている。

ゆうべぼくすいさいがとうていものおも昨夜は僕が水彩画をかいて到底物にならんと思って、ほうおだれりっぱがくらんまかそこらに抛って置いたのを誰かが立派な額にして欄間に懸けてゆめみがくみわれきゅうくれた夢を見た。さて額になったところを見ると我ながら急にじょうずひじょううれりっぱひと上手になった。非常に嬉しい。これなら立派なものだと独

ながくよあめさもととおりで眺め暮らしていると、夜が明けて眼が覚めてやはり元の通りへたことあさひともめいりょう下手である事が朝日と共に明瞭になってしまった。

しゅじんゆめうちすいさいがみれんしょ主人は夢の裡まで水彩画の未練を背負ってあるいているみすいさいがかむろんふうしいわゆるつうじんと見える。これでは水彩画家は無論夫子の所謂通人にもなたちれない質だ。

しゅじんすいさいがゆめみよくじつれいきんぶちめがねびがく主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁眼鏡の美学しゃひさぶしゅじんほうもんかれざへきとうだいいち者が久し振りで主人を訪問した。彼は座につくと劈頭第一えくちきしゅじんへいきかおに「画はどうかね」と口を切った。主人は平気な顔をして「きみちゅうこくしたがしゃせいつとしゃせい君の忠告に従って写生を力めているが、なるほど写生をす

いまきものかたちいろせいさいへんかると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などわかせいようむかしゃせいしゅちょうけっかがよく分るようだ。西洋では昔しから写生を主張した結果こんにちはったつおも今日のように発達したものと思われる。さすがアンドレア·デルにっきことだ·サルトだ」と日記の事はおくびにも出さないで、またアンドレア·かんしんびがくしゃわらじつきみデル·サルトに感心する。美学者は笑いながら「実は君、あれでたらめあたまかなにしゅじんからかは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と主人はまだ譃はれたこときなにきみかんぷく事に気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドぼくねつぞうはなしきみレア·デル·サルトさ。あれは僕のちょっと捏造した話だ。君がまじめしんおもだいきそんなに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜えつていわがはいえんがわたいわきかれきょうにっ悦の体である。吾輩は椽側でこの対話を聞いて彼の今日の日きことしるあらかじそうぞう記にはいかなる事が記さるるであろうかと予め想像せざるをえびがくしゃいいかげんことふち得なかった。この美学者はこんな好加減な事を吹き散らしてひとかつゆいいつたのしみおとこかれ人を担ぐのを唯一の楽にしている男である。彼はアンドレじけんしゅじんじょうせんひびきつたア·デル·サルト事件が主人の情線にいかなる響を伝えたかごうこりょとくいしもことを毫も顧慮せざるもののごとく得意になって下のような事をしゃべときどきじょうだんいひとまうおおい喋った。「いや時々冗談を言うと人が真に受けるので大にこっけいてきびかんちょうはつおもしろがくせい滑稽的美感を挑撥するのは面白い。せんだってある学生ちゅうこくかれいっせだいにニコラス·ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大ちょじゅつふつこくかくめいしふつごかえいぶん著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文でしゅっぱんいがくせいばかきおくい出版させたと言ったら、その学生がまた馬鹿に記憶の善いおとこにほんぶんがくかいえんぜつかいまじめぼくはなとお男で、日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りくかえこっけいときぼうちょうしゃを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者はやくひゃくめいみなねっしんけいちょう約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴しておっおもしろはなしあぶんがくしゃた。それからまだ面白い話がある。せんだって或る文学者の

せきれきししょうせつはなでいる席でハリソンの歴史小説セオファーノの話しが出たからぼくれきししょうせつうちはくびおんなしゅじん僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人こうしききひとおそひょうぼくむこ公が死ぬところは鬼気人を襲うようだと評したら、僕の向うすわしいことせんせいに坐っている知らんと云った事のない先生が、そうそうあすこじつめいぶんぼくおとこぼくどうようは実に名文だといった。それで僕はこの男もやはり僕同様

しょうせつよことししんけいいじゃくこの小説を読んでおらないという事を知った」神経胃弱せいしゅじんめまるとでたらめ性の主人は眼を丸くして問いかけた。「そんな出鱈目をいって

あいてよひとあざむもし相手が読んでいたらどうするつもりだ」あたかも人を欺く

さしつかえばけかわときこまのは差支ない、ただ化の皮があらわれた時は困るじゃないかかんびがくしゃすこどうと感じたもののごとくである。美学者は少しも動じない。「なときべつほんまちがなんいいにその時ゃ別の本と間違えたとか何とか云うばかりさ」と云っわらびがくしゃきんぶちめがねかてけらけら笑っている。この美学者は金縁の眼鏡は掛けていせいしつくるまやくろにしゅじんだまるがその性質が車屋の黒に似たところがある。主人は黙っひでわふわがはいゆうきいて日の出を輪に吹いて吾輩にはそんな勇気はないと云わんばか

かおびがくしゃえだめりの顔をしている。美学者はそれだから画をかいても駄目だとめつけじょうだんじょうだんえじっさいいう目付で「しかし冗談は冗談だが画というものは実際むもんかせいじいんずかしいものだよ、レオナルド·ダ·ヴィンチは門下生に寺院のかべうつおしことせついん壁のしみを写せと教えた事があるそうだ。なるほど雪隠などにはいあめもかべよねんなが這入って雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまいもようがしぜんでききみちゅういしゃせいみたま模様画が自然に出来ているぜ。君注意して写生して見給おもしろできだまえきっと面白いものが出来るから」「また欺すのだろう」「いえこじっさいきけいはなしれだけはたしかだよ。実際奇警な語じゃないか、ダ·ヴィンチこときけいそういしゅでもいいそうな事だあね」「なるほど奇警には相違ないな」と主じんはんぶんこうさんかれせついんしゃせい人は半分降参をした。しかし彼はまだ雪隠で写生はせぬようだ。

くるまやくろごびっこかれこうたくけだん車屋の黒はその後跛になった。彼の光沢ある毛は漸だんいろさぬくわがはいこはくうつくひょう々色が褪めて抜けて来る。吾輩が琥珀よりも美しいと評しかれめめやにいっぱいいちじわがた彼の眼には眼脂が一杯たまっている。ことに著るしく吾はいちゅういひかれげんきしょうちんたいかくわる輩の注意を惹いたのは彼の元気の消沈とその体格の悪くことわがはいれいちゃえんかれあさいごひなった事である。吾輩が例の茶園で彼に逢った最後の日、どいたずさいごべさかなやてんびんぼううだと云って尋ねたら「いたちの最後屁と肴屋の天秤棒にはこりごり懲々だ」といった。

あかまつあいだにさんだんこうつづこうようむかしゆめ赤松の間に二三段の紅を綴った紅葉は昔の夢のごとちちかかわがわはなびらこうはくさざんく散ってつくばいに近く代る代る花弁をこぼした紅白の山茶かのこおつくさんげんはんみなみむきえんがわふゆひ花も残りなく落ち尽した。三間半の南向の椽側に冬の日あしはやかたむこがらしふひまれ脚が早く傾いて木枯の吹かない日はほとんど稀になってからわがはいひるねじかんせばき吾輩の昼寝の時間も狭められたような気がする。

しゅじんまいにちがっこういかえしょさいたこもひと主人は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立て籠る。人がくきょうしいやいやすいさいがめった来ると、教師が厭だ厭だという。水彩画も滅多にかかなこうのうこい。タカジヤスターゼも功能がないといってやめてしまった。子どもかんしんやすようちえんかえしょうかうた供は感心に休まないで幼稚園へかよう。帰ると唱歌を歌っ

まりときどきわがはいしっぽさて、毬をついて、時々吾輩を尻尾でぶら下げる。

わがはいごちそうくべつだんふと吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まず

けんこうびっこひひくらねずみまず健康で跛にもならずにその日その日を暮している。鼠はけっといまきらなまえ決して取らない。おさんは未だに嫌いである。名前はまだつけよくさいげんしょうがいきょうしてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師うちむめいねこおわの家で無名の猫で終るつもりだ。二わがはいしんねんらいたしょうゆう吾輩は新年来多少有めいねこ名になったので、猫ながらちょっはなたかかんと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。がんちょうそうそうしゅじんもと元朝早々主人の許へいちまいえはがききかれ一枚の絵葉書が来た。これは彼こうゆうぼうがかねんしじょうじょうぶあかかぶの交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部をふかみどぬまんなかいちどうぶつうずくま深緑りで塗って、その真中に一の動物が蹲踞っているとこかしゅじんれいしょさいえよころをパステルで書いてある。主人は例の書斎でこの絵を、横かみたてながいろら見たり、竪から眺めたりして、うまい色だなという。すでにいちおうかんぷくおも一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはりよこみたてみねむ横から見たり、竪から見たりしている。からだを拗じ向けたり、てのとしよりさんぜそうみまど手を延ばして年寄が三世相を見るようにしたり、または窓のほうはなさきもきみはや方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてひざゆけんのんことどうようくれないと膝が揺れて険呑でたまらない。ようやくの事で動揺はげおもちいこえいったいなにがあまり劇しくなくなったと思ったら、小さな声で一体何をいしゅじんえはがきいろかんぷくかいたのだろうと云う。主人は絵葉書の色には感服したが、どうぶつしょうたいわかくしんかいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたみわかえはがきおもねものと見える。そんな分らぬ絵葉書かと思いながら、寝ていためじょうひんなかひらおはらみまぎ眼を上品に半ば開いて、落ちつき払って見ると紛れもない、じぶんしょうぞうしゅじんき自分の肖像だ。主人のようにアンドレア·デル·サルトを極めこがかけいたいしきさい込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんとととのできだれみねこそういすこがんしき整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。少し眼識ねこうちほかねこわがはいことのあるものなら、猫の中でも他の猫じゃない吾輩である事がはんぜんりっぱかめいりょうこと判然とわかるように立派に描いてある。このくらい明瞭な事わかくしんおもすこにんげんきどくを分らずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒できことえわがはいいことしになる。出来る事ならその絵が吾輩であると云う事を知らしてわがはいいことわかやりたい。吾輩であると云う事はよし分らないにしても、せめねこことわかにんげんて猫であるという事だけは分らしてやりたい。しかし人間といとうていわがはいねこぞくげんごかいうてんめぐみうものは到底吾輩猫属の言語を解し得るくらいに天の恵よくどうぶつざんねんに浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。どくしゃことわがんらいにんげんなん

ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞとねこねこことけいぶくちょうわがはいひょういうと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって吾輩を評かくせにんげんかすうしうまで価する癖があるははなはだよくない。人間の糟から牛と馬が出きうしうまふんねこせいぞうかんがじ来て、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自ぶんむちこころづこうまんかおきょうし分の無智に心付かんで高慢な顔をする教師などにはありが

ことみみものちの事でもあろうが、はたから見てあまり見っともいい者じゃなねこそまつかんべんできめい。いくら猫だって、そう粗末簡便には出来ぬ。よそ目にはいちれついったいびょうどうむさべつねこじかこゆうとくしょく一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色なねこしゃかいはいみふくどはないようであるが、猫の社会に這入って見るとなかなか複ざつじゅうにんといろにんげんかいことば雑なもので十人十色という人間界の語はそのままここにおうようできめつきはなつきけなみも応用が出来るのである。目付でも、鼻付でも、毛並でも、あしなみちがひげはぐあいみみたあんばいしっ足並でも、みんな違う。髯の張り具合から耳の立ち按排、尻ぽたかげんいたおなひときりょうぶき尾の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。器量、不器りょうすきらすいぶすいかずつせんさばんべつい量、好き嫌い、粋無粋の数を尽くして千差万別と云ってもさしつかはんぜんくべつそん差支えないくらいである。そのように判然たる区別が存してにんげんめこうじょうなんいるにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいっ

そらみわがはいせいしつむろんそうぼうて、空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論相貌すえしきべつこととうていでききどくどうるいあいの末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。同類相もとむかしことばとおもちやもちや求むとは昔からある語だそうだがその通り、餅屋は餅屋、ねこねこねこことねこわかにん猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。いくら人げんはったつだめじっさい間が発達したってこればかりは駄目である。いわんや実際をい

かれらみずかしんなんうと彼等が自ら信じているごとくえらくも何ともないのだからどうじょうとぼわがはいしゅなおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい吾輩の主じんそうごのこかいあいだいいちぎ人のごときは、相互を残りなく解するというが愛の第一義でわかおとこしかたかれあるということすら分らない男なのだから仕方がない。彼はしょうわるかきしょさいすつがいかいむか性の悪い牡蠣のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向っくちひらことじぶんたっかんて口を開いた事がない。それで自分だけはすこぶる達観したよ

つらがまえたっかんしょううな面構をしているのはちょっとおかしい。達観しない証こげんわがはいしょうぞうめまえすこさとよう拠には現に吾輩の肖像が眼の前にあるのに少しも悟った様

试读结束[说明:试读内容隐藏了图片]

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