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发布时间:2020-06-04 07:48:05

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作者:王秀文

出版社:外语教学与研究出版社

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历史与民俗:日本文化源流考述

历史与民俗:日本文化源流考述试读:

前言

今年是我进入吉林大学外文系(1973年)开始学习日语40周年,也是我步入社会、参加工作44周年,在即将结束职业生涯的今天,自然感慨良多。在我的职业生涯中,有36年直接参与了日语教育、日本研究和中日文化交流,目睹和亲历了当代40余年来中日两国关系的发展、变化,同时也为之尽了自己的绵薄之力。

在这长达36年的教职生涯之中,我先后获得5次共计为期3年零7个月的赴日学习和研究机会,得以专心调查研究、撰写论文、发表研究成果,并获得大阪大学文学博士(学术博士)学位。如卷尾初刊一览所见,本书大部分内容均为此间见诸于日本学术期刊的论文,也包括讲演和刊载在日本报刊上的部分文稿。因为多用日语撰写并发表在日本,很少见教于国人,故引以为憾。由是,近期产生将之结集出版之念,恰逢大连民族学院设立优秀著作出版基金,遂获得资助出版,令我倍感荣幸与欣慰!

出于日语教育工作需要,我很早便对研究日本产生了浓厚兴趣。先是搞了几年日语语法之类的研究,写了几篇论文,后来于1981年留学北海道大学一年,由此开始接触日本社会语言学。此后又因研究所需而改弦易辙,涉足日本文化,最后走进了历史民俗比较研究领域。然而,由于专业和学科建设的需要,于1997年开始又不得已而兼顾搞些外语教育研究,以保证工作的品质。从结果上看,我的研究似乎略显庞杂,但实质上却不外乎日本语言、文化、教育与交流这个大范畴,相互之间相得益彰。

这个特点,一方面体现了我的研究目的与方法。在我初上讲坛之际,我国百业待兴,而自己作为一名教师却是知识贫乏,难以胜任,于是学习便成了当务之急。既要学习又要研究,于是学习式研究便形成了定势,而我的学习式研究博而采之,不拘一格,不以标新立异为目的。另一方面体现了教学内容改革和人才培养的需要。我国的外语教育在七八十年代是“语言”一边倒,九十年代要求学生了解“文化”,进入21世纪之后是培养“跨文化交际”人才,而“跨文化交际”则必须以“语言+文化”为基础才能实现。由此看来,“博采”反倒是更为符合外语教学和人才培养的需要了。

藉此书出版之际,仅向长期以来给予我学术关心和无私指导的恩师中野美代子教授、山折哲雄教授致以诚挚的谢意,向几十年来与我推心置腹、给予我莫大理解与帮助的中日两国知己表示由衷的感谢,同时也向一直以来为我的学术活动提供支持并给予本书出版资助的大连民族学院致以崇高的敬意。著者二○一三年春节 于大连序篇语言·文化与教育第一章敬語よ くたばれ一外国人の体験的日本文化論一、「私はお思いします」

10年前の1972年9月、中国と日本との国交が回復された。そしてそれまで杜絶していた両国間の経済、文化などの交流がさかんになると、中国に「日本語ブ-ム」が現れた。私が大学で日本語を学び始めたのは、この「日本語ブーム」が始まった1973年10月である。

私は大学での勉強は熱心な方だったと思う。私は毎日いっしょうけんめい、すべての外国語の勉強法がそうであるように、文法と単語を覚え、例文を丸暗記した。その成果があって、2年もすると日本語で何とか話ができるようになった。その結果、私は外国語というものは文法と単語の組み合わせにすぎない、それを一応マスターすれば外国語はこなせるのだ、そう考えるようになった。

それが間違いだと気づいたのは、日本語の敬語を習ったときである。先生は何が尊敬の敬語か、何が謙譲の敬語か、何が丁寧の敬語か、敬語の概念と敬語の文法をまず説明して、それから例文を黒板にあげながら、敬語の接頭語·接尾語、敬語動詞、敬語の助動詞、敬語の補助動詞などについてその種類と使い方を教えてくれた。私は例によって教わったことを丸暗記した。いままでの例では、授業で習ったことはその日のうちに暗記し、練習して次の日の授業で例文を応用して文が作れた。しかし、今度はそうはいかないのだ。覚えた例文しか話せず、応用がまったくできないのである。「私はお思いします」などのようなとんでもない文を作ってしまうのだ。

その原因は、いうまでもなく敬語の文法が他の文法より複雑なばかりでなく、その使用法がいろいろな社会的人間関係と結びついていることにある。敬語は人間の上下関係、親疎関係、恩恵関係を想像しながら使うようにすればよいと授業で教えられても、敬語の使う習慣のない中国にいて、授業だけにたよって敬語を理解することは不可能に近いのである。もともと、中国語にも敬語が多かったそうだが、現在ではほとんど使わなくなった。ただ二人称を表す普通の言い方の「你」(日本語の「あなた」などに当たる)に対する丁寧な言い方の「您」と、人に何か行為をたのむとき文頭につけて使う「请」(「……して下さい」に当たる)があるぐらいだ。

敬語ばかりではない。「もし皆さんがよろしかったら……したいと思いますが」、「私は今日……することになっています」というような日本語の文末につく「……が」「……になる」などの表現にもなじめなかった。明らかに自らの意志を表そうとするのになぜ率直に言わずにこんなもってまわった言い方をとるのか理解できなかった。また、「そう思われる」「そう考えられる」のような自発を表す「れる」「られる」の使い方もそうだ。私には何となく責任逃れの言い方のように感じられた。中国語は自分が相手に言いたいことをズバリと言ってしまう言語であるから、私はこうした日本語の言語行動をとることがなかなかできなかった。

以上のことは何も中国人だけが日本語を学ぶ時にぶつかる問題ではない。おそらく、どの外国人でも経験することに違いない。よくいわれるように日本語習得のむずかしさは敬語などの人との応対における待遇表現にあるのだから、私もそのむずかしさに直面してとまどったまでのことである。

私は敬語によってそれまでの勉強法がまったく通じないことを知って以来、日本語の待遇表現にかえって興味を持つようになった。日本人にはああした待遇表現がなぜ必要なのか、それは日本人の思考様式や行動様式とどう関係するのか。これを知るにはぜひ日本に行ってみなければならない、私はそう思うようになった。二、「すみません」

私は大学で3年半日本語を学び、それ以後大学で日本語を教えることになった。そして昨年の10月、日本語·日本文化研修のために、1年間日本に留学できることになった。はじめての日本訪問である。合計8年の日本語経験があるとは言え、それはすべて日本の社会を離れたところで、しかもほとんど授業と書物だけから覚えた知識だけのもので、言葉の実感もないし、言葉と関連する社会がわかるはずがなかった。私は本場の日本語が学べるという希望に満ちあふれて日本の土を踏んだ。

日本についた翌日の朝、空港前のある食堂で、日本での初めての食事をした。食べ終わって出る時、ウエートレスがみんな丁寧に「ありがとうございました」と言うのだ。そこで私も丁寧に「ありがとうございました」と同じことばをくり返して礼を返した。店の人が外国人を歓迎する意思表示かと思った。しかし他の日本人の客にもそうしている。どうもそうでもなさそうである。それに他の客は礼を言われても特に気にとめず、だまったまま店を出ていくではないか。中国では、礼を言うのは普通客の方だし、礼を言われれば礼をもって返すのが常識であるのだ。それ以後も何軒かの店に入ったが、同様なくり返しであった。自分の作法は日本ではまちがっているのではないか、私は自分の行動に自信がなくなった。それでしばらくのあいだ店に入ることができなくなった。

日本に来て下宿することになった。私にとって日本人の生活習慣を学ぶ絶好のチャンスである。そこでまず不思議に思ったことは「いただきます」「ご馳走さま」ということばである。辞書によると、「いただきます」は「食う」「飲む」の丁寧な言い方であり、「ご馳走さま」は豪華な食事からきたあいさつであって、いずれもお客さんとしてもてなされた場合に礼に言うことばだとある。それにもかかわらず、家族の間で食事のたびに「いただきます」「ご馳走さま」をくり返すのだ。赤の他人である私は、たとえ「ご馳走」でなくても当然言わなければならない。しかし、家族間でなぜいわなければならないのか。家族間ではみんながだまって食べ、だまって食事を終わえる習慣のついた中国人の私には日本人のその心理がわからなかった。

その次に私を驚かせたことは日本人の他人に対する応対の仕方である。当初、道をたずねることがよくあった。迷惑をかけるのだと思って、いつもできるだけ丁寧なことばをさがして使ったが、相手は意外に私よりも丁寧な言い方をもって答えてくれる。相手も分らない場合、何と「すみません、……」と言って謝りさえするのだ。迷惑をかけられて詫びてくるとは何と不思議なことではないか。私はその後、よく日本人の言動をみていたが、日本人が実によく「すみません」を使うことがわかった。自分が悪くなくてもそう言う。ことばだけでなく、表情にまで謝る気持が表れているのである。

私はこんなことを何度と経験しているうちに、日本人の言語行動が少しずつ理解できてきた。道をたずねられて答えられずに「すみません」というのは、おそらく奉仕できない気持から出るのであろう。店の人が「ありがとうございました」というのも店を利用していただいたという気持の表現であることがわかった。日本人の言語行動は他人を中心にして行われることがわかってきた、私は一応こうした言語行動を「他人本位」の言語と呼ぶことにした。

この「他人本位」はことばの面だけでなく、日本人のすべての行動に見られるようである。日本人はものを言うときによく「……ませんか」「……でしょう」などの言い方をして、直截的な言い方をあまりしない。私がかつてそこに日本人の責任逃れのように感じた言語行動が、日本ではごく普通のことなのである。それにまた人の話を聞いてもあまり反論しないで、自分の意見を述べるだけか、「そうですね」と言って議論をさけているようだし、反対するときでも真向から反対することが少ない。せいぜい「そうかな」といって何となく同意しないことを表示することが多い。すぐに意見をたたかわせたがる中国人から見れば、実に静かな対話に思える。これはよくいわれるように他人との直接的な摩擦をさけようという日本人の心理の表れであって、やはり「他人本位」の発想といえるだろう。三、「うち·よそ」「上·下」

この日本人の言動行動に対する私の感じ方は、私が中国で日本語の敬語を習った当初に感じたものと同質のものであった。日本人はなぜこうした言語行動をとらねばならないのか、理解不可能であった。私はこうした経験を積み重ねるうちに、日本人の言語行動は何も敬語に限らず、すべて同じ思考様式に基づくものではないか、そうだとすると、日本人の敬語の「謎」を解き明かせば、この日本人の思考様式、さらには行動様式が解明できるのではないか、そう考えるようになった。私はそこでそれまで関心は大いにありながらただただ敬して遠ざけていた敬語をやっと本格的に考えてみることにしたのである。図1

そもそも敬語とは何であるのか。国語辞典の説明をかりれば、「聞き手や話題にのぼっている物事に対する、話し手の敬意、へだたりなどの気持を表す言葉づかい。また、そのための特別な言葉」﹙『岩波国語辞典』第3版、1979年発行﹚ということになるが、問題はその言葉づかいないし言葉がどのように使われるか、その言語行動のあり方にある。日本に来てからはじめて読んだ「外国人のための日本語教育指導参考書」のうちの一冊である『待遇表現』﹙文化庁1971年発行﹚には、日本人の敬語に関する言語行動のあり方が詳しく書かれている、それによれば、敬語は、社会的人間関係のヨコのつながりである「うち·よそ」

とタテのつながりである「上·下」でとらえることができ、それを意識上からいえば「親·疎」と「恩恵·被恩恵」ということになるという。そしてつぎの図が書かれてある。

この「うち·よそ」「上·下」「親·疎」「恩恵·被恩恵」について、同書ではこう説明されている。

ヨコの人間関係である「うち·よそ」というのは話し手·聞き手·話題の人が、身内であるかどうか、自分の属している職場·集団·機関·組織体と同一集団に属しているかどうかということから生まれる意識であって、このいわゆる「仲間意識·よそ者意識」とも言えるものは、場面を構成する要素からみた場合、他の要素である心理的要因=「親·疎」ともかかわりをもつものである。

タテの人間関係である「上·下」は年齢·性別·職業·身分·地位·間柄などにおいて、「上·下」関係から生まれる意識のことであって、職場や家族関係では、「上·下」意識より、むしろ利害関係と結びついた諸相をささえる恩恵·被恩恵の意識が強い。

このヨコの人間関係とタテの人間関係の組み合わせによって、敬語を使うかどうか、どのような敬語を使うかが決定される、という。

たとえば、子どもと年上の女の人がいて、二人が他人の関係にある場合、つぎの会話はこう説明できるのである。

子ども「これ、おばさんにあげましょう。」

話し手である子どもは、年上の他人の女の人に話しているので、つまり、タテの関係では「上」、ヨコの関係では「疎」に当たるわけであるから、上述の図1でいえばⅠにあてはまるのである。逆にいえば、話し手と相手がⅠに位置する関係にあるから、あまり若くない年上の女の人に対して用いる「おばさん」ということばを用い、「あげましょう」という丁寧な言い方を用いるのである。

これが年長者に対してでも、話者と相手とが親しさの度が強いと、「手伝ってあげよう」「手伝ってあげるね」ということができ、とくに丁寧な言い方を必要としない。

もう一つ、例をあげておこう。

①「弟がおばさんにこれをあげるといっていましたよ。」

②「弟が君にこれをあげるといっていたよ。」

③「弟が君にこれをやるといっていたよ。」

日本人ならただちにこの三つの会話にある「うち·よそ」「上·下」関係がわかるはずである。①の「弟」は話者からいえば図1のⅢに属し、「おばさん」は、弟からも話者からもⅡに属するから、「あげるといっていましたよ」という言い方をとる。②は「君」が話者と同等か「下」﹙ⅢかⅣ﹚であり、弟には「上」(ⅠかⅡ)であるから、「あげるといっていたよ」という言語表現をとる。③は「君」が話者と同等か「下」(ⅢかⅣ)であり、弟とも同等か「下」(ⅢかⅣ)であるから、「やるといっていたよ」という表現になる。

日本人の敬語ないしことばの使い方は、このように常に対人関係がどの位置に属するかを考慮に入れなければならず、これはまさしく私がいう「他人本位」の日本人の行動様式そのままである。こうした「うち·よそ」「上·下」を考えてそれに合ったことばを使うだけならば、「うち」と「よそ」、「上」と「下」がわかればよいのであるから、努力によってそう大きな間違いを犯さずに使えるようになる。しかし、日本人のことばの使い方はそれほど簡単なものではないのである。

私たち中国人は日本人と話す場合は、常に「よそ」になるのであるから、敬語は「上·下」関係が一番大きな力をもつものと思って、「上·下」関係にいつも注意して敬語を使うように努力していた。中国は伝統的に長幼の序が厳しい国であるから、長幼の序を守ってことばを使いわけることは、訓練を積めば不可能なことではなかった。しかし、日本にきて日本人の使い方は長幼の序がそう大きな力を持っていないことに気づいた。たとえば、20歳以上も年上の非常勤の先生が年下の専任の先生に品度の高い敬語を使っているではないか。教師という立場は非常勤も専任も同じであるのにどうしてか。中国では教師と学生との場合には明確な区別があるが、同じ立場や職務にある場合は同等であって、そこには長幼の序しか作用しない。それも名を呼ぶ時に年長者に対して親しさを示す「老」を姓の前につけるとか、年少者に「小」をつけるとか、または態度で敬意を示す位のものである。日本人のここに見られた言語行動は「うち·よそ」「上·下」の組み合わせの中で、「上·下」よりも「うち·よそ」関係の力がはるかに強く働いているのであろう。

またこんな経験もした。普段親しくつき合い、ことばも「友達ことば」を使っている日本のある年上の友人が、私に金を借りる必要があった時、急にバカ丁寧な敬語を使ったのである。私は気持が悪くなった。これなども「上·下」よりも「うち·よそ」関係が優先していたものが、今度は「恩惠·被恩惠」の関係が優先したのであろう。

これらを考えると、先の『待遇表現』の説明にあるように、社会的人間関係の「うち·よそ」「上·下」と意識上の「親·疎」「恩惠·被恩惠」とが対応関係にあるというよりも、この八つを組み合わせて、その時の話者の置かれている状況によって、その中から最も必要と思われるものを選び出しているのではなかろうか。敬語の使用原理をそのように考えるほうが、私には敬語の本質が理解しやすいように思われる。

敬語の使用原理がそうであっても、しかし、われわれ外国人にとって、やはり敬語は秘密結社の中の秘密暗号のように思われる。その組み合わせが複雑であるだけでなく、その中から一つを選び出す基準がまったくわからないからである。

では、その選び出す基準は何であるか。ここまで考えると、私の頭は混乱して、目がくらくらするが、「乗りかかった船」である。ともかくもう少し敬語の問題を考えることにしよう。四、「おにいちゃん、パパが呼んでる」

われわれが日本語の使い方で当惑したり、苦労したりするもう一つのことがらは、対人関係を示す人称語の使い方である。これもまた敬語と同様に複雑である。母親らしい人が子どもにつぎのように言っている光景などは日本でよく見かけることである。

「おにいちゃん、パパが呼んでるよ。」

年配の女性が小学生ぐらいの子どもに向かって「おにいちゃん」というのも、自分の夫のことを「パパ」と呼ぶのも、はじめは不思議でならなかった。中国では、子どもに向かって言う時には、名前を言うか「你」という二人称を示す語を用いるか、「○○のパパ」というように親族関係を明瞭にするのが普通である。これは何も自分の子どもに対する場合だけに限らない。ごく一般的な使い方である。

こうした対話はまだ不思義に思って聞いているだけですむが、一番困るのは自分が相手に向かって言う場合である。どんな対人関係語を使うか、それに一苦労する。中国語ならどのような相手でも「你」か「您」ですますことができ、それで相手に悪い感情を与えないが、日本語では、教科書で習った通りに相手に向かって「あなた」ということばを使うと不都合な場合が多いという。日本にきてはじめてわかったのだが、日本人の会話の中で「あなた」ということばはほとんど使われていない。だいたい対称語の「あなた」「おまえ」「きみ」といった代名詞は目上から目下または同等者には使われているが、目上に対して代名詞が使われているのを目にしたことがない。目上には代名詞でなく、地位·職業を示す語が使われるようである。

上と下によって対人関係語がこのように使いわけられるとすると、これは敬語の使用法と同一である。そうだとすると、捉えどころのない敬語ばかりにかかわって、その「秘密」を解き明かそうとするよりも、もっと範囲の狭い対人関係語の問題を考えれば、あるいは敬語の「秘密」を解くカギが得られるのではないだろうか、私はそう思いついた。しかし、いかにして対人関係語の問題を考えるのか。私がこの問題で悩んでいた時、ある先生から鈴木孝夫著『ことばと文化』﹙岩波新書、1973年発行﹚を読むように勧められた。

私はこの本の第6章の「人を表すことば」の中に、私が考えようとする対人関係語の問題の回答がほとんど書かれているのを知った。これだ!これこそ敬語の「秘密」を解くカギなのだ。

ここには、日本人の自称詞﹙話し手が自分自身に言及することば﹚と対称詞﹙話し手が相手に言及することば﹚との使い方の規則がこう説明されている。

「この規則性を基本的に支えているものは、目上﹙上位者﹚と目下﹙下位者﹚という対立概念である。このことは敬語組織一般などから考えても当然のことであるが、対人関係用語としての自称詞、対称詞の使い方には、実に見事な上下の分極が見られるのである。」

「次に分ったことは、日本人の対話は、たとえそれが社会的なコンテクストのものでも究極的には親族間の対話のパターンの拡張とみなすことができるということである。」図2

そしてつぎの親族﹙家族﹚内の上下の人間関係を表わす図が示されて、親族間の自称と対称のことばの構造が分析されている。

「(一)話し手(自己)は、目上目下の分割線の上に位する親族に人称代名詞を使って呼びかけたり、直接に言及したりすることはできない。」

「(二)話し手は、分割線より上の人を普通は親族名称で呼ぶ。」

「(三)話し手は、分割線より上の者を名前だけで直接呼ぶことはできない。」

「(四)話し手が、分割線より上の者に対して自分を名前で称することは可能であるが、分割線より下の者に対しては通例これを行わない。」

「(五)話し手は分割線の下に位する者を相手とするときは、自分を相手の立場から見た親族名称で言うことができるが、分割線より上の者に対してはそれができない。」

なお、ある特定の親族集団内では、目上の者は目下の者が自分を呼ぶ、まさにそのことばをひき取って、自分のことを称する。

中国の親族名称は複雑だとよくいわれる。父系、母系や夫系、妻系による血縁の違いによって、また兄弟順によって名称が細かく分かれている。たとえば、父系の父より年長のおじは伯父、年下のおじは叔父、おばは姑母であるが、母系のおじは舅父、おばは姨母である。親族名称は、このように血縁や長幼によって異なるので、日本語の親族名称よりもはるかに繁雑ではあるが、しかし、その使い方は話し手からの親族関係を示す語を用いればよいのであって、日本のような目上と目下による使い分けはない。まして親族名称の使い方の原則が、日本のように家族外の社会にまで拡張的にあてはめられることはない。

日本では、この本によると、親族(家族)内の対話に見られる自称詞、対称詞の使い方の原則は、ほとんどそのまま、社会的情況にも拡張的にあてはめることができる、という。

「(一)たとえば私たちは普通の情況下では、自分の先生や上役を『あなた』のような人称代名詞で呼ぶことはできない。」

「(二)社会的に目上の人を、先生とか課長といった地位名称で呼ぶことは普通である。しかし先生は生徒を『おい生徒』と呼ぶことはできない。」

「(三)名前(姓)の使用に関しても、上下の分割線はよく守られている。先生や上役を姓だけで呼ぶのは、かなり珍しいケースで、名前を使うときは田中先生とか山田課長のように地位名称を付加しなければならない。」

「(四)目上に対して話し手が自分のことを名前(姓)で称することも、『課長、これは是非山本におまかせ下さい』などとは言えるが、その逆はない。」

「(五)自分を地位や資格を示す名称で呼ぶケースも、先生は生徒に対して、自分を先生と称することができるが、生徒が自分のことを生徒とは自称できない。」(前掲『ことばと文化』)

以上のことから明らかなことは、日本語はこれほどまで上下の分割線をはっきりさせ、それによってことばの使い方が違うということである。それだけならばすでに敬語の使い方で十分わかっていることである。ここで重要なことは、地位や資格や役割を示す語は、対話の中では目上に対してまたは目上から用いる語であって、通常下位者の自称語とはならないということである。五、「△△会社の○○です」

日本人は自己紹介をしたり、人を紹介する場合、かならずといってもよいほど名前よりも先に○○大学、○○会社などの所属を言ってそれから名前を言う習慣がある。これも私には不可解なことの一つであった。中国ではまず名前を言って、それから必要ならば所属を言うのが普通である。日本人はなぜまず所属を言わなければならないのか。

中根千枝著『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書、1967年発行)によると、日本人の集団意識は「場」におかれているそうである。

「日本人が外に向かって(他人に対して)自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは、資格よりも場を優先することである。記者であるとか、エンジニアであるということよりも、まず、A社、S社の者ということである。また他人がより知りたいことも、A社、S社ということがまず第一であり、それから記者であるか、印刷工であるか、またエンジニアであるか、事務員であるか、ということである。」

つまり、日本では、「場」すなわち会社とか大学とかいう枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっているということであって、個人のもつ資格自体は第二の問題となってくるということである。

ではなぜ資格よりも「場」を優先させるのか。この新たな疑問が、当然出てくる。私はそれをこう考えてみた。つまり、日本人がまず「場」を強調するのは、その人間の社会的な位置や役割を相手に知らせる役目を果たしているのではなかろうか。対話の双方が社会的な位置を知らせ合うことによって、両者間の位置関係がおのずと判明し、その上下関係によって言語行動をとりやすくしている、そのように理解できるのではないか、と。

そのためには、その「場」すなわち所属が何らかの「上·下」「親·疎」を示す働きを持っていなければならない。日本人は所属する「場」によって人を判断するといわれる。これなどは、日本人が常に「場」の上下を意識している証左であろう。実際、日本人の言語行動の中には、実によく個人よりもその所属集団の名がものをいい、それによって信頼が異なることが多々見られる。同じ品物でも、Aデパートの包装紙のもののほうが、Bデパートのものよりも価値があるように多くの日本人が感じるのも、これと同類であろう。

それならば、その役割を果たしさえすれば、「場」を示さずとも「資格」を示してもよいはずである。そのことを日本人に確かめたところ、その資格が社会的な地位、役割を示し得るものならば、「場」よりも「資格」をいう場合が多いという。たとえば、医者、弁護士、パイロットなどがそうである。学校の先生などもそれに類する場合があって、「私は小学校の教師をしている○○です」という場合も珍しくないそうである。

そう考えれば、日本人が初対面者にまず所属する「場」を明らかにし、さらに必要ならばその地位(部長とか課長)を付け加えるのは、何もそれを誇示する意図から出たものではなく、日本人の言語行動の必要上から欠かすことができないものだからであると理解できる。もし話し手に相手の位置が不明ならば、日本人の言語行動は大混乱を生じ、対話はスムーズに運ばないおそれが十分に考えられる。

こうした日本人の言語行動における対話者双方の位置の確認は、親族名称の使い方に端的に表れている。たとえば、『ことばと文化』ではそれを父子の対話を例にして、こう説明している。

「一般に父親は息子と話すとき、自分をパパとか、おとうさんと言う。息子に対しては、おまえと言ったり、名前を言ったりする。息子の方からは父親を、パパとかおとうさんとは呼ぶが、代名詞と名前は使えない。そして息子は自分のことを僕と言ったり稀には名前で言及する。……

要するに父親が息子と話すをする時、父の側から自分の持つ役割(つまり上位者の役割)の確認が、直接明示的には三通りの言語手段で、間接含意的には一通り、合計四通りで絶えず行われていることになる。他方息子のほうからは、自分が下位者という役割を持つことの確認が直接的には2種、間接的にも2種、この2人の人間の対話の中では、8種類の異なった手段で、相互の役割の確認および役割の付与が行われていることになる。……」

日本人の言語行動は、ここに示されたように、親族名称の使い方一つとってみても、いかに上下の役割を重視しているかがわかる。

しかも、その上下の役割の確認はおおむね上位者を確認することに重点が置かれているのである。先ほど「資格」を示す場合をあげた事柄に見られるように、「資格」によって自分を位置づける場合は、その「資格」が社会的に位置の高いものに限られているようである。たとえば、「私は大工の○○です」という言い方は可能ではあるが、通常は「私は○○です。大工をやっています」というようである。また、上位者から「私は△△会社の営業部長○○です」といわれたとき、下位者がたとえ係長の地位にあっても、「△△会社の営業係長○○です」とはいわないで、「△△会社の営業の○○です。係長をやっています」というのが普通だそうである。このことは注目に価する。

私はこれには親族名称の使い方と同様の原理が働いているように思われる。つまり、前章で述べたような自分より上の人を親族名称で呼ぶこと、およびその会社的情況への拡張である会社的に目上の人を地位名称で呼ぶこと、および相手が自分より下位にある場合に自分を地位や資格で呼ぶことと同様な原則が作用しているのではないか、ということである。それゆえに、日本人の言語行動はすべてにわたってまず自分と相手との、それも上位者との関係を確認することからはじめなければならないのではないか、そのように考えられる。名称までもがこれほどまでに目上または上位を意味する言語行動をとる国は、他に類を見ないのではないだろうか。

日本人がこうした言語行動をとるのは、『タテ社会の人間関係』で指摘されているように、日本のあらゆる社会集団に共通して「タテ」の組織が見られ、たとえ同一集団内の同一資格を有する者であっても、それが「タテ」の運動に影響されて、何からの「差」が設定され、強調されることによって、驚くほど精緻な序列が形成される、そのことと大いに関係するであろう。しかし、その日本の社会集団のありようとこうした言語行動の発生とがいかなる関係にあるのかは、いまのところまだ明らかにされていないようである。六、なぜ英語の通知をよこすのか

今年の6月、国際教育振興会主催の第23回「外国人による日本語弁論大会」が催された。よい勉強のチャンスだと思って私もふるって応募した。原稿とそれを吹きこんだテープを送ってから10日ばかりたつと、主催者側から1通の種類が送られてきた。あるいは予選を通過したのでは、と私は急いで封を切った。そして書類を目にしたとたん、あっと声をあげた。書類は英語で書かれているではないか。日本語のものは?どこにも、ない。もちろん中国語の説明などあろうはずがなかった。

その時、私は憤りよりも「開いた口がふさがらない」気持だった。私は英語の弁論大会に応募したのではない。日本での日本語弁論大会に応募したのだ。その予選通過の通知になぜ英語を用いるのか。ああそうか。これは外国人による日本語弁論大会なのだ。私は外国人なのだ。当然英語はわかるはずなのだ。日本人はそう考えているのだ。そして英語で通知することが外国人に対する親切であると考えているに違いない。私はこう理解した。

この小さな事件は、日本人の外国観を実によく反映しているように思われる。日本人には「欧米崇拝」が強いといわれる。確かに街にあふれる看板を見ても、テレビのコマーシャルを見ても、いわゆるカタカナか横文字ばかりで、漢字のもの、日本語のものはきわめて少ない。私は飛行機から降りて日本の土を踏んだとたん、日本の「欧米崇拝」が聞きしに勝るものであることに驚いた。中国は逆になんでも中国化してしまうといわれるほど「頑迷」であるから、余計に日本の「欧米崇拝」が目につくのかも知れないと思っていたが、今回、私自身がそれを経験して、その強さを確認することができた。

なぜ日本人はそれほどまで「欧米崇拝」になるのか。これ以降私はこのことが頭から離れなくなった。日本は歴史的に輪入文化の国であるからだともいわれる。「島国根性」の裏がえしだともいわれる。そうかも知れない。しかし、欧米の近代文化を輪入したのは何も日本だけではない。中国だってそうである。日本より少し遅れるが、弱体化した中国を建て直すためにさかんに「西洋文明」を採り入れようとした。また「島国」は日本以外にもあるが、日本ほど欧米一辺倒の国はないのではないか。

いま欧米とか西洋ということばを使ったが、日本人の意味するところの欧米、西洋とは、文字通りの欧米や西洋ではなく、その中の英、米、独、仏に限られたものである。それらの国が欧米での「先進国」といった捉え方ではなく、欧米イコール英、米、独、仏といった思考であるように思われる。日本人に外国人ということばの持つイメージを聞くと、多くが白人、それも「先進国」の人と答える。日本語弁論大会の英文の予選通過通知書もまさしくこれと同じ思考なのだ。

この思考様式は、いまにはじまったものではない。明治維新の時に欧米近代文化の輪入をはじめて以来ずっとそうである。そしてそれ以前の輪入国であった中国やオランダは、日本人の「外国」からきれいに消えていった。中国も「清末」から外国文化をどんどん輪入したが、それは日本と同様に主に「先進国」のものであった。しかし、その他の国が「外国」の範疇から除かれるということはなかった。

たとえば、日本では明治以後、外国文学の翻訳、紹介はほとんど英、米、独、仏、それにロシアのものに限られている。他の小国の文学が精力的に翻訳、紹介されることはなかった。ところが中国では、欧米の新文学の本格的な翻訳、紹介の開始と同時に、それらの「先進国」の文学と同様、ノルウェイ、デンマーク、スウェーデン、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ベルギー、ギリシア、スペイン、オランダなどのヨーロッパの小国の文学も翻訳·紹介した。さらに、日本、インド、トルコなどのアジアの国の文学、ペルー、アルゼンチン、ブラジルなどのラテンアメリ系の文学までもが翻訳·紹介されたのである。その理由は、それらの小国ないし被圧迫国のありようと、中国の置かれている立場とを重ね合わせることによって、中国を考えるということにあったが、しかし、そこには、いかなる小国にも先進国と同等の価値を見いだす思考が働いているといえる。

では、なぜ日本は異なるのか。なぜ日本は先進国でなければ国にあらず、といった思考をとるのか。私はこの問題を考えているうちに、ふとこれは日本人の言語行動と同一の思考様式ではないか、そう思いついた。七、外国人は素性の知れない相手である

日本人は外国人に弱いといわれる。これには二つの意味がある。一つは、外国人を敬遠するといった意味、もう一つは、外国人を非常にありがたがるといった意味である。私には、この二つの意味は、一方の裏がえしが一方であるといったことではなく、まったく同じ原理から派生したものではないか、そのように思われる。

ふたたび『ことばと文化』をかりれば、日本人が外国人を敬遠するのは、つぎのような理由からだという。

「日本人にとって素性の知れない相手という点で最たるものは、いわゆる外国人であろう。典型的な単一民族社会に育った私たちは、外国人を一見しただけでは、相手が何者であるかを同定するために必要な情報の手がかりをつかむことができない。そこで相手を同定する機能が、紅毛碧眼の人間を前にしてショックによる拒否反応のため、一種の麻痺状態になると考えられる。」

このことは、逆にいえば、相手を「同定」できる情報が与えられれば、いくら外国人であっても拒否反応を起さないということを意味している。事実、私など「紅毛碧眼」でない外国人であっても、日本人の拒否反応に悩まされることがある。しかし、私が中国人だとわかると急に親しそうに話しかけてくる。これなども中国人であるという情報が、日本人には私を「同定」する大きな要素となっているのである。

こうした行動様式は、すでに見た日本人の言語行動と無関係ではない。日本人は、まず相手の位置や役割がわからなければ、対話が不可能になってしまうことと同じ原理である。

日本人が外国人を敬遠するもう一つの理由は、日本人の持つ「ウチの者」「ヨソ者」意識の強さにある。日本ほどその意識の強い国はないといわれる。日本人はなぜそれほど強く「ウチの者」と「ヨソ者」を区別するのか。さきの『タテ社会の人間関係』によれば、その意識はこのようにして醸成されたという。

「エモーショナルな全面的な個々人の集団参加を基磐として強調され、また強要される集団の一体感というものは、それ自体閉ざされた世界を形成し、強い孤立性を結果するものである。……こうした社会組織にあっては、社会に安定性があればあるほど同類意識は希薄となり、一方『ウチの者』『ヨソ者』の差別意識が正面に打ち出されてくる。」

日本人が「ウチの者」「ヨソ者」の意識を持つようになったのは、たぶんこのような理由からであろう。しかしもっと他の理由も考えられるのではないか。この意識もまた日本人の言語行動と同一の原理にもとづく面があるのではないか、と私は思うのである。つまり多分に、いかに相手の位置、役割を知っているか、その情報量が、「ウチの者」と「ヨソ者」とを差別する意識を生む大きな力になっているのではないか、ということである。その情報量が多ければ多いほど「ウチの者」の意識が強くなり、少なければ少ないほど「ヨソ者」意識が強くなる。そしてその情報量が個人的なものにかかわればかかわるほど、「ウチの者」の意識が強くなるのである。そうあることによって、相手と自分との関係がより固く決定でき、心理的により一層安定した人間関係を組むことができるからである。

たとえば、他人からその人間の秘密を打ちあけられると、その人間に対して「ウチの者」の意識がおこるということは、それを証明する一つであろう。また日本人は商談をする場合、よく一席設けるという習慣があると聞く。酒の席で商談をするのではないそうだから、これなども相手を「同定」し、安定した人間関係を組むための行為だといえよう。その場合、その人間のよそゆきでない面がわかればわかるほど商談がうまくいくといわれる。それもまた上述の論理から導かれる当然の帰結である。

以上見てきたように、日本人の「ウチの者」「ヨソ者」意識も、外国人に対する日本人の意識とまったく同じ原理が働いている面が強いといえる。こうしたことから考えると、日本人が世界にまれなほど他国や他人の情報を知りたがるのも、単なる知識欲や興味からだけではなさそうである。上に見た日本人の言語行動や行動様式の原理からくる習性の面も強いのではなかろうか。

日本人が外国人を敬遠する理由は以上のことでほぼ説明できると思う。では、つぎの問題、日本人が外国人を非常にありがたがるのはなぜか、ということについて考えてみたい。

私は、これも言語行動と同一の思考様式で説明できるのではないかと思う。つまり、すでに「五」で考えたように、日本人が未知の相手に会った時、まず相手の位置、役割を確認することからはじめなければならない。その確認には、自分との「上·下」関係を知ることが第一にせねばならないことであって、そしてその「上」と「下」とでは「上」が優先され、「下」に対してさほど配慮する必要はない。もっと端的にいってしまえば、「上」さえ確認できればよいのである。

これをもっと具体的にいえば、外国人にはじめて会った時、はじめは情報がないため敬遠しても、いくらか情報が得られて多少安定した人間関係を組むことができるようになると、つぎには日本人の思考様式から、「上·下」意識が頭をもだけてくる。もちろんこの場合の外国人というのはあくまで「紅毛碧眼」に限られるから、日本人の目には「上」に位置することになる。ここに急に外国人に対して敬虔の念が生じてくるのである。

いま私は、「紅毛碧眼」だから日本人には「上」に位置することになる、と言った。それについて少々説明する必要があろう。これも上述の論理を当てはめれば説明できる。

未知の外国に対して、はじめは排他的であっても、その座標が明らかになれば、そしてそれが自分より「上」であることが確認できれば、言語行動と同様、日本人は常に「上·下」関係に立った行動様式を採るのである。しかも、日本人の集団意識は資格にはなくて「場」におかれており(『タテ社会の人間関係』)、また日本人は、直接的で契約的な人間関係を持てず、むしろそれ自体がすでに与えられた人間関係として、ものごとを把握する傾向が強いという(『ことばと文化』)から、その「上·下」関係はすべてに固定して当てはめられてしまう。それゆえ、いったん「上」であるという意識を持つと、それに所属するものすべてが「上」と意識されるのである。そして「下」と意識したものに対しては一顧だにしない。それは、敬語が常に「上」との関係のみ考え、「下」を意識する必要がないのと同様である。

以上のことを簡単にいってしまえば、日本人は明治以後、欧米(それも英、米、独、仏に限られる)を、「上」と「同定」した。その結果、西洋人すべてを「上」と思うようになった、ということである。

私は日本人のいわゆる「欧米崇拝」の論理を以上のように考えてみた。いささか論証不足で、牽強付会のきらいはあるが、こうした日本人の行動様式も、基本的には言語行動のもつ思考様式と同様な論理に貫かれていることは間違いあるまい。八、敬語よ くたばれ

私は、大学での日本語の勉強において当惑した敬語の問題を、日本に来てから経験したり、教わったり、書物から学んだことをまぜ合わせて考えてみた。そしてこの問題は敬語ということばだけのことがらではなく、日本人の思考様式、行動様式などとも相互に関係していることを理解した。しかし、はじめに問題提起した敬語を使う基準は何であるかは、結局のところよくわからない。とはいえ、以上見てきたことから考えると、日本人にとって敬語を使う基準の中で最優先されるものは、恩恵と被恩恵の関係、あるいは『タテ社会の人間関係』のことばでいえば、親分·子分の関係であるように思われる。年配の非常勤講師の先生が年若い専任の先生に非常に丁寧な敬語を使うのは、そこには雇用者と被雇用者の意識が働いているようだし、普段友達づきあいしている友人が借金の申し込みには急に敬語を使って驚かせたのも、そこに恩恵と被恩恵との関係が生じたからであろう。また、親族名称の「上·下」意識も、恩恵と被恩恵との関係を基本的に持っていると考えられる。「欧米崇拝」にしても、文化の授与者と被授与者という関係が大いにかかわっていると思われる。こう考えると、一見したところ「他人本位」のように見え、非常にウェットに思われる敬語も、実は非常にドライなものに思われてくる。

あるいは、敬語の内部にそうしたドライなものが存在するためかどうかはわからないが、私は、私が接した日本人の年配者の使う「正しい敬語」からは、あまり「本当」の感情や気持ちを感じることができない。かえって、若者たちの無遠慮なことばに本当の感情がみられ、暖かさが感じられた。これは、私が若者と年齢的に近いということもあろう。私が敬語になじめないということもあるだろう。それだけではないと思う。日本人の言語行動ないし思考様式がすでに大きく変化し、それが従来の日本人の言語行動、思考様式を妨害するようになりつつあるのではないか、私はそのような気がするのだ。

日本ではとくに第二次大戦後、激しい社会変動とともにことばが乱れ、ことに敬語の乱れがはなはだしいといわれる。私に無遠慮に話す若者たちもそうであろう。そのため、その乱れた警鐘をならす本が多く書かれている。その一冊である大石初太郎著『敬語』(筑摩書房、1975年発行)の内容紹介にこう書かれてある。

「敬語をうまく使いこなせないのは、大変な損です。職場やつきあいの上で悩んでいる人びとにおくる、敬語と言葉の最良の案内書。」

これはいかに若者たちにとって敬語が使いにくいものであるか、悩みの種であるかを示している。このことは若者たちが「正しい敬語の使い方」を知識として知らないということだけではなくて、かれらも私と同様に、敬語を使う思考様式を持っていない、と考えるほうがよいように思う。この現象は、日本の文化からいえば損失になるかも知れない。しかし、私は、この傾向は日本にとって好ましいことではなかろうかと思う。敬語の崩壊の上にかならずや真の人間尊重の、「うち·よそ」、「上·下」、「親·疎」、「恩惠·被恩惠」の関係によらないことばの使い方が築かれるであろう。私はそれを確信しているし、またその徴候は若者たちの思考様式、行動様式にすでに現れている。

若者たちの外国を見る目が、実に自由で従来の価値観にとらわれていないことにも、それは見られる。かれらは欧米に対しても、アジアに対しても、固定的な絶対的な価値観を持っていない。それぞれの国の文化に対しても、それぞれの「資格」を認める思考を強く持っている。私の周りの若者たちだけでなく、日本人の多くがそれを認めている。これは従来の「欧米崇拝」「西洋中心主義」の思考が崩壊しつつあることを示しているといえる。

先に見たように、「欧米崇拝」の思考様式は、日本人の敬語に代表される言語行動と軌を一にするものであった。それならば敬語が乱れれば、「欧米崇拝」は必然的に崩壊しなければならない。今日の若者たちがそれを証明している。

敬語の乱れが、このように従来の「欧米崇拝」を崩し、世界の国を「上·下」関係で見ない方向を導き出すならば、それは日本と外国(従来の日本人の「外国」ではなく、すべての外国)との交流にとっても、まことに喜ばしい限りである。そうなれば、私は、チャンと日本語で書かれた通知書を受けとることができるであろう。日本で開かれる日本語弁論大会の予選通過通知書が、英語で書かれるということなど、なくなるであろう。

私は日本が一日も早くそうなることを期待する。そのためにあえて言いたい、「敬語よ くたばれ」と。第二章肇めに「する」ありき

日本語の「する」ほど多様性を持った動詞は、おそらくどの国のことばにもないだろうと思います。その働きはだいたい「結婚する」「パスする」「いたずらする」「はっきりする」のように、漢語や外来語や大和ことばなどについてそれを動詞化するのが多いようです。また一方では、「何々をする」「何々にする」などのように、助詞の「を」や「に」などとも簡単に結びつきます。

さて、この「する」ということばはいったいどういう意味でしょうか。いろいろな辞書を調べてみましたが、残念なことには、どれもこれもはっきりとした意味は書いてありません。よく考えてみますと、「する」の意味は「する」ということばそのものにあるのではなくて、「する」を好んで使う日本人の心の中にあるのではないでしょうか。すなわち、「する」は日本人が手塩にかけて育てあげたことばであり、日本人の心の現れだと私は思うのです。

「する」の役割は、まず外国語をそのまま日本語化することに、よく発揮されます。たとえば、ドイツ語の「アルバイト」から「バイトする」ができ、英語の「パートタイム」から「パートする」ができたのはそのよい例でしょう。

このように、外国語を日本語の中に溶けこませるには、「する」ということばの役割は非常に大きいと思います。日本は、歴史の節目節目に先進国の文化·技術を急速に取り入れなければなりませんでした。勿論、ことばにおいても同様です。外国語と日本語という、二つの異質なものをこの「する」を媒介にして組み合わせ、自分のことばとしてしまいました。私は、これを日本人の「する」的発想と呼びたいと思います。

「する」的発想の具体的な例をもういくつか挙げてみましょう。たとえば、「汗」とか「哲学」などのような名詞に「する」をつけて、「汗する」「哲学する」のように、するすると動詞にかえてしまいます。近ごろでは、「する」がすっかり人気者になりまして、「タバコする」とか「ブリッコする」などの流行語を作り、ブラウン管を通してみなさまに可愛がってもらっています。「する」の面目躍如たるものがありますね。

アメリカ人の友達から、あなたによっては日本語はやさしいでしょうとよく言われます。漢字が共通だから、簡単だろうと言うのでしょう。ところがドッコイ、全然意味の通じないことがしょっ

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